豊松地区は、平成16年(2004年)10月までは豊松村
という自治体で、上豊松(かみとよまつ)、下豊松(しもとよまつ)、有木(あるぎ) 、笹尾(ささお)、中平(なかだいら) という各自治振興会から構成されており、広島県内では最後まで残ってた村制施行の地域でした。
その歴史は大変古く、開花天皇(9代天皇)の五世の孫、息長日子王
(おきながひこのみこ)がこの里を拠点に近国を鎮め、その子孫が代々この地に住んだとか。さすが神の棲む村だけあって現在でも盛んに神楽が行われています。
祟神天皇(10代天皇)の皇女豊鋤入姫
が、米見山に上り、自名の「豊」の一字を記して松にかけ祈ったといわれ、この地を「豊松」と命名されたと伝えられています。
戦国時代に入り中国地方は、大内・尼子氏の争奪を経て毛利氏 の支配下となります。
関ヶ原の戦い後、神石郡は広島藩(福島正則)の所轄となり、改易分割後福山藩に属することになります。その後水野家断絶により福山藩の領地は一時天領となりました。幕府は松平を入封させて福山藩を再興するものの他の神石郡域とともに下豊松は中津藩小畑代官の配下に入ます。それ以外の4村(上豊松・笹尾・中平・有木)は石洲代官(石見陣屋から派遣された?)の管轄となり、その後阿部氏 入封の福山藩に再び併合され幕末まで続きます。(※一般に神石高原町は水野断絶以降は中津藩に属していたと云われていますが、下豊松村以外の豊松村域は中津藩に属していないんですね)
明治に入り廃藩置県
の制度のなかで紆余曲折の後、豊松村を含む神石郡域は明治9年広島県に属しました。当時の神石郡は22ヶ村あったそうですが、下豊松・上豊松・笹尾・中平・有木村が合併して明治37年豊松村が誕生し、平成16年に郡内合併するまでの100年にわたる単独村制が続くわけです。
末期には紙ヒコーキタワー
やトマト団地の建設など観光面にも非常に積極的に取り組む姿勢が印象的な村でした。
豊松地区の見どころについては左の項目をクリックしてご覧ください。

|
神石高原町観光協会が設置した豊松地区の観光名所案内標識。
写真をクリックするとMapionによって設置位置が表示されますので、参考にしてください